羊草ーひつじぐさー

時の旅人


 布を織る。



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 織っているとき、音楽もラジオも聴かない。

 五感を「なんとなく」な感じにして、入ってくる音、匂い、風が触れる感覚、そういったものをただ流れに任せている。
 考えるということをしないで、でもふと湧いてくる思考も、「そうなんだ、」とうけとめては、他人のもののように流していく。

 この世界は私のものだ、と決めて。


 そうしていると、沈黙という幕間から、ふとインスピレーションがやってくることがある。
 今日感じたことはなかなかおもしろかった。

 私たちは「時の旅人」だ。

 時、というのは、直線で表される感覚ではなく、「今」というこの瞬間。
 私というものはこの全き「今」にしか存在できない。
 無限に点在する「今」から「今」へ、無限に移動しながら変化している。

 「今」のなかには、「今」を基準にしてあったことになっている「過去」という幻想がある。
 だから、直線的な時間の観念を持っている間は、その「過去」を感じることもできるだろう。
 でも、「今」を絶えず移動している私が思う「過去」は当然毎瞬違っているかもしれない。
 さっきいた「今」では、存在したはずの誰かが、次の瞬間の「今」には存在しないかもしれない。
 でも、それは比べたり確認したりすることはできない。
 だって、自分がもう、さっきの「今」を認識することはもうできないから。
 「ここにある今」を「私の今」だとしか認識できないから。

 そうだとすると、考えるということには意味がない。
 他人、も存在しないに等しい。だから気にする意味がない。
 考えたり、気にしたりしているうちは、まるで人生が運任せのように、ただやってくる、コントロールできないもののように感じるだろう。
 でも、そう感じているのも、思考、エゴ(自我)なのかもしれない。

 大いなるものが自らの意志で無限の「今」を旅しているのが、本来の私たちの姿なのかも。
 そこには自由意思があり、「今」という時を渡り歩いて「経験」という旅をする。
 大いなるものの自由意志と一致したとき、初めて操縦席についた感覚になるだろう。
 本当はずっと操縦席に座っているのに、目隠しをしたままスリルを味わっているのが自我の姿なのかもしれないな。

 そんなことが、ふっと風のように心の中を抜けていった。
 






 







 
 
 
by hituji-gusa | 2013-10-07 15:01 | 羊のこと