羊草ーひつじぐさー

河井寛次郎の宇宙


 戦争も終わりに近づいた頃でありました。東京も大阪も神戸も都市という都市が、大抵やっつけられてしまいまして、やがてはこの京都も、明日といわず同じ運命を待つ外ない時でありました。
 私は毎日のように夕方になるとこの町に最後の別れをするために、清水辺りから阿弥陀ケ峰へかけての東山の高見へ上っていました。
 その日もまた、警報がひんぱんに鳴っていた日でもありました。私は新日吉神社の近くの木立の下のいつも腰掛ける切株に腰掛けて、暮れていく町を見ていました。明日は再び見る事の出来ないかも知れないこの町を、言いようもない気持で見ていました。
 その時でありました。私は突然一つの思いに打たれたのでありました。なあんだ、なあんだ、何という事なんだ。これでいいのではないか、これでいいんだ。焼かれようが殺されようが、それでいいのだ ― それでそのまま調和なんだ。そういう突拍子もない思いが湧き上がって来たのであります。そうです、はっきりと調和という言葉を私は聞いたのであります。
 なんだ、なんだ、これで調和しているのだ、そうなのだ ― という思いに打たれたのであります。しかも私にはそれがどんな事なのかはっきりわかりませんでした。わかりませんでしたがしかし何時この町がどんな事になるのかわからない不安の中に、何か一抹の安らかな思いが湧き上がって来たのであります。私は不安のままで次第に愉しくならざるを得なかったのであります。頭の上で蝉がじんじん鳴いているのです。それも愉しく鳴いているのです。さようなら、さようなら京都。
 それからは警報が鳴っても私は不安のままで安心 ― といったような状態で過ごすことが出来たのでありました。
 しかし何で殺す殺されるというような事がそのままでいいのだ。こんな理不尽な事がどうしてこのままでよいのだ ― にもかかわらず、このままでいいのだというものが私の心を占めるのです。この二つの相反するものの中に私はいながら、この二つがなわれて縄になるように、一本の縄になわれていく自分を見たのであります。 



 

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 河井寛次郎のたくさんの言葉が、以前には感じなかったところまで感じられる。
 でも、その感じを、自分の言葉ではつくせなくなってきたのです。
 言葉にできないことが、このごろはとても多い。

 でも、感じたことはすべて自分の中にある。
 元からあったものを思い出しただけで、消えてしまうことなどないのですね。


 最近感じることは、この世で言う「幸」「不幸」は、等価なんじゃないかということ。
 体験するということだけがこの世に生きた目的であって、それらは体験としては等価であるのではないかということ。
 それを生み出すエネルギーもまったく出所は一緒なのではないかということ。
 どちらを体験もそれでよい、ということ。
 どちらがいいということはない、ということ。
 善い悪いはない、ということ。

 大切なことは、それらはすべて自分の中にあるということ。
 自分そのものだということ。
 ただ、それだけだということ。



 饗応不尽

 無数のつっかい棒で支えられている生命
 時間の上を歩いている生命
 自分に会いたい吾等
 顧みればあらゆるものから歓待を受けている吾等
 この世へのお客様に招かれて来ている吾等
 見つくせない程のもの 
 食べ切れないご馳走
 このままが往生でなかったなら
 寂光浄土なんか何処にあるだろう



 三千世界を楽しもう。




            「河井寛次郎の宇宙」 河井寛次郎記念館 編   講談社カルチャーブックス










 最近ハマっている万城目学原作の映画「鴨川ホルモー」の主題歌。


 神様になったらどうする?
 変えたいものばかりでも 泣き笑いのいっぱい詰まった人生を
 神様に会えたらどうする?
 壊したいもの抱えて 十字架背負って 奔走してるんだな いろいろ
 神々Looks you Looks you  あるがまま生きよう この三千世界
 Looks you Looks you!





 





 

by hituji-gusa | 2014-03-11 17:00 | 読書の時間