羊草ーひつじぐさー

物語のない世界で




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 猪熊弦一郎現代美術館でひらかれている、鈴木理策写真展「意識の流れ」を観てきた。

 タイトルの「意識の流れ」は、

 見るという行為に身をゆだねると、取り留めのない記憶や、さまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりの様な感情をもたらすことがある。

 という、鈴木理策の経験に基づいてつけられたものだそうだ。


 人は写されたイメージに意味を見出そうとする。
 だが意味が生まれる以前の状態で見ることを示したい。


 
 たとえば風景を眺めるにしても、遠くの木々を見たり、目の前の花を観たりしながら、そのすべてを感じているだろう。
 それがレンズを通せば、シャッターを切るときにフォーカスしていたものだけが写真には落ちている。
 その瞬間だけいくらながめても、それまでに移ろった視線の流れ、意識の流れを読むことはできない。

 そういうことなんだろうか、と。


 たとえば誰かのことを深く知りたいと思うとき、その人が見てきた景色を、自分も見てみたい、と思う。
 その人の経歴よりも、どんな色を見て、どんな風に触れ、どんな温度を感じてきたかを知りたいと思う。

 私が感じたいのは、その人が今抱えている「物語」よりも、もっとシンプルにその人の底に存在する感性なのかもしれない。
 色や匂いのようなものだ。

 純粋に、今までに移ろった視線の流れ、意識の流れ、そういうものから生まれた感性。

 物語という仮のものではなく、その人本来の肌合いのようなものだ。
 





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 物語に取り込まれているとき、いろんな役を演じることを私たちは求められている。
 その役割を演じているうちに、自分の底に流れる感性を殺すか忘れてしまうことがある。

 私としては、もう物語にも飽きた。
 役としての誰かに出会うことにも飽きてしまって、この世が少しおもしろくない。

 自分を自分らしく見せているすべての物語を捨てて、感性という意識の流れを共有してくれる誰かと出会いたい。
 そういう場所で、人と出会いたい。


 と、そんなことを私は考えていたんだろうか、と館を後にしてから考えた。

 ひょっとすると、物心ついてからずっと。
 いやおうなく、物語に取り込まれてしまう悲しみについても。

 そういう場所で出会っても、ゆくゆく物語に戻っていく人たちのこととか。


 そういうことに思いをめぐらす自分は、やはり変わっているのだろうか、とか。



 ここひと月くらい、心をめぐる問いの答えが、今朝の夢にふと現れたような気がして、そうしたところ、鈴木理策の写真展のことを思い出した。
 
 せっかく四国に行くなら、あれもこれも、と思いかけたが、そうしたら肝心なことが薄まってしまいそうでやめた。
 大好きないのくまさんの美術館に行ったのにもかかわらず、あえていのくまさんの常設も素通りした。


 ただ、純粋に感じてみたかった。





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 図録は高かったけど、買うことに決めていた。

 表紙は三種類の中から選べるが、やはり桜にした。


 鈴木理策の撮る桜の色が好きだ。



 











 
by hituji-gusa | 2015-04-24 00:03 | いろやかたち