羊草ーひつじぐさー

自分自身とつながる音色


 雨乞いのたとえだ。


 或る旱魃のひどい地域に、雨乞い師が呼ばれた。
 雨乞い師は、与えられた小屋に引きこもると出てこなくなった。
 そうして三日が経ったとき、雨ばかりでなく雪まで降り始めた。そんな季節でもないのに。

 「あなたは小屋の中で一体どんな儀式を行ったのですか?」
 尋ねられた雨乞い師は答えた。
 「私は何にもしていません。私はここに来る前、とても調和のとれた場所にいたのですが、この場所はひどくそれが乱れていた。だから私は自分がタオに戻ることにしたのです。」


 ここに言う「タオ」とは、自然ということかもしれないが、それだけでは分かりにくい。
 自然に戻る、自然とつながる、と言っても、畑を耕すこととはちがう。
 自分自身の、内なる自然につながる、ということだろう。
 
 なおさら分かりにくいかもしれないけれど。


 自分の中の内なる自然とつながっていない人間の視点は、常に他人を見ている。
 他人の目に映る自分にとらわれているから、そこには競争や欲が常に付きまとう。
 そういう人間ばかりが増えるとその場所は調和が乱れ、それに連なって環境という意味での自然の調和も損なわれる。
 だから雨は降らない。
 誰もが求めれば求めるほど、自然は遠ざかり、与えられるべきものは誰にも与えられないのである。

 雨乞い師は、自分が自分自身とつながる時間につとめただけだ。
 その波動がその場所に、調和を引き寄せたのである。

 
 と、理解した。

 ユングの著作の中に、雨乞いのたとえ話は引用されているらしい。
 と、それを引用して書かれていた、別のある本で読みました。
 又聞きの理解なわけだけど。


 こうしなくちゃとかああしなくちゃとか、もうそういうのも、なるべくやめよう
 ・・というより できなくなってくる。心が向くほうへ。風が教えてくれる。
 水が教えてくれるんですね。植物たちも声なき声でささやいてくれる。
 大事なのは 心がここにあること。
 わたしが わたしであることなんですね。
 そうすると
 何をやっていても楽しいんです。
 


 千晶さんはブログの中でこんなふうに書いていた。
 雨乞い師が小屋の中で何をしたか。
 心がここにあるように、私が私であるように。
 そういうふうに、瞑想か何かをしながら、自分を自分自身とつなげていただけなのではないかと想像する。

 人間という物質も、つきつめればエネルギー体である。
 どのようなエネルギーとつながるかで、その物質の性質は決まる。
 よい波動にふれれば、よい性質になる。
 おだやかで明るいエネルギーに触れれば、自然とおだやかで明るくいられるのである。
 
 





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 先日、落ち葉が積もる公園の片隅で、千晶さんのライアーの音色に触れた。
 久しぶりだった。

 そろそろ千晶さんの音が聴きたい。
 そう思って、ブログをのぞいたら、なんと数日後にはそれがかなっていた。

 千晶さんの歌声とライアーの音色に触れると、自分が整い、穏やかになる気がする。
 

 
 千晶さんは、彼女自身がその場を清浄にする力を持っている。
 その声と、つまびく音色。
 選ばれた人にだけ、与えられるものがある。

 そして、選ばれた人は、誰にでも惜しまずにそれを与えるのである。
 惜しまず与えることができる人に、それは与えられる。



 
           ライアー奏者 今井千晶さんのブログ「天の森だより」


 
# by hituji-gusa | 2010-12-03 23:29 | もの